息子が中学受験をすることは最初から決まっていました。しかし小学校入学時点では、塾なしなどということは考えていませんでした。塾にしっかり付いていけるようにサポートに徹するつもりでいました。
それがどうして塾なしでいくことを決意するに至ったのか。それをお話しする前に、やや本筋から外れますが、私の中学受験を振り返ってみます。40年近く昔のことです。そこから説明する方がより理解していただけると思います。
高知について
私は高知の出身です。高知といえば南国のイメージがあるかもしれません。そのイメージ通り、気候は温暖で雪はほとんど降りません。日差しが東京より強いです。しかし、暑さは東京の方が辛くて、都市の暑さは頭がクラクラします。夏も冬も、高知の方がいくぶん過ごしやすいです。
カツオのたたきが有名なことから、漁師町がたくさんあって、漁師さんが多いと思っている人もいます。確かにテレビではよく出てきますね。東京に住んでいて、私が高知出身だと言うと、やっぱり漁師さん多いんですか、と聞かれることがあります。でも私の住んでいたところの近くには港がなかったこともあり、漁師の知り合いはいません。
まあ、いいところなんですけど、とにかく田舎です。そんな田舎の高知の意外な特徴が、私立中学高校が強いところです。私立が強い、というよりは公立高校が弱いといった方が正しいでしょう。私が高知にいた頃は、公立トップ校から東大京大はおろか、早慶もほぼいなかったと思います。(今は頑張っていて、それぞれ数名ずついるようです。)
(参考URL:http://ma-chan.blog.jp/archives/23469777.html )
そういう県だったので、勉強ができる小学生は中学受験をする割合がとても高く、通塾する生徒も多かったです。四谷大塚、日能研、浜学園などの大手塾はなく、県内では大手の土佐塾が各地に展開していた以外は、個人による塾に通うことになります。私が通っていた塾も老舗の個人塾でした。
恐怖の塾
すでに初老だった先生の塾は、同じ市内はもちろん、片道30分以上かけてバスで来ている子供もいるくらい盛況で、普通の小学校の教室よりもひと回り小さい教室に百数名押し込まれていました。板張りに正座が基本で、座布団は使用できません。
夏はクーラーガンガンでしたが、冬は窓を開けました。南国といっても熱帯じゃありません。真冬に窓を開ければかなり寒いです。でも、前後、左右の人との距離が近いので、やや寒さは軽減されました。
今と大きく違うところは、4年生はないところです。いつの間にか、4年からになったんでしょう。しかも実質は3年後半から新4年生とか言って通いますよね。当時は5年生の4月からでした。
5年生は週3日、6年生は週4日で、1日約4時間でした。午後6時から10時まで、食事時間はありません。帰宅して遅い夕食を食べます。弁当を作る必要はありませんでした。ちなみに、月謝は5年生が約8000円、6年生が約12000円でテスト込みでした。テスト作成、採点は先生おひとりでやっておられましたが、今考えるとなかなか儲けてますね。でも今と比べると激安です。
なかなか大変そうですが、本当に大変なのはこんなことではありません。今の世の中では絶対に生徒が集まらないことが行われていたのです。それは過激な体罰です。
堅い竹の棒(竹だったと思うんですが、その割にしなりがなかった)で、頭を叩かれます。こぶができます。それはそれは痛かったです。こぶもひとつならマシな方で、目を付けられて集中攻撃されると、頭は大仏のようにデコボコになります。かなり短い坊主頭ならリアルに大仏様に近づきます。
どんなときにやられるかというと、順番に暗記法を言わされるときが多かったです。暗記法は、歴史の年代(794ウグイス平安京みたいなやつ)を始め、短いフレーズでいろんなことが覚えられるようになっている教材で教科を問わずありました。その暗記法で間違うと一発アウトで叩かれます。それ以外では基準はあまりなく、先生の機嫌次第です。世の中の理不尽を存分に感じられました。(もっとも、昔は学校の先生もなかなかにりふじんでしたね。)
暗記法については、別の機会に勉強法として取り上げます。3、4秒で言い切れる短いフレーズは記憶するのにぴったりの長さで、覚えれば忘れにくい特徴を持っています。今でも塾でおぼえたフレーズはたくさん口から出てきます。
1マイル 人の群来る 1609m
1海里を 一夜で往に 1852m
など今でも役に立つものも多いです。(往には往ぬの連用形です。行く、去るの古語ですが、土佐弁では今でも使います。)
話を戻します。あまりの恐ろしさに、塾では私語などできません。おかしくなるくらいの緊張感の中で勉強してました。現在では、恐怖で縛ることは、自主性をなくさせると言われています。(話題の日大アメフト部の事件も恐怖で自主性を狂わせた一例でしょう。)
でも、100人を狭いところに押し込んで授業を成立させるにはそれしかなかったかもしれません。
そんな恐怖の塾なのに、なぜかやめる人は少なかったです。昔は子供が嫌がっているからと言って、親がすんなりとやめさせてくれることはなかった、という理由もあります。かくいう私もやめたいとは思いませんでした。(今日行きたくない、とは毎回のように思ってましたが。)
その理由は、いつの間にか学校の勉強が抜群にできるようになっていたからです。塾に入る前までは、クラスでそこそこ成績が良い方というレベルでした。それが一気にトップになったのです。そんな成果が出ては塾やめませんよね。
けれども、学校の勉強がいくらできても、中学受験に太刀打ちできないのは今も昔も同じです。とりわけ算数のレベルが学校と受験では全くの別物です。
算数ができなかった
当時の算数は特殊算が中心でした。つるかめ算とか植木算とかいうアレです。今で言うところの思考問題は少なく、特殊算の応用問題が難問という扱いでした。その分問題の量は多かったと思います。
私はその算数ができませんでした。当時の問題の性質と私の実力から考えると、特殊算を公式のように覚え込んでしまうのが手っ取り早かったのだと思いますが、勉強が嫌いで塾以外では勉強しなかった私には難しかったのでしょう。
入塾が他の人より3ヶ月ほど遅かったことも影響しました。最初についた差が最後まで埋まりませんでした。
親が、私が算数ができないことを受け入れたことも大きいです。おまえは算数が苦手だとよく言われました。それはある意味、算数はできなくても良いという免罪符のようになります。
算数はできませんでしたが、何とか受験を突破し、高知県のトップ校に入ることができました。算数が数学に変わっても苦手意識が変わることはなく、最終的に今では多少バカにされがちな私立文系コースから大学に入りました。
そんなわけで、とても算数を教える自信がない、というよりはまったく教える気などなかったので、塾なしでやってみようとか考えるはずもありませんでした。
一方、覚える系科目は、暗記法をはじめとして、この頃(息子の小学校入学時)にはいくつか武器を持っていたので、教えられる自信はあったんですが・・
そんなところから、塾なしに決めた理由は次回です。
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unknown (日曜日, 19 4月 2020)
はじめまして。もしかして私の先輩かもしれません。
私は桟橋に近い方の学校の出身です。
私の場合は、実家が田舎過ぎて、近所に塾がなかったので、塾なしで進学しましたが、昔の高知にこれほどまでに厳しい塾があったとは夢にも思いませんでした。
入学式では総代だった先輩が、名も知れぬ大学に進学したという話を聞いたことがありますが、小学校時代の詰込みが度を越していて、早々に燃え尽きたのかもしれません。