計算練習に集中して取り組んでいる子供の姿を見て。何となく嫌な気持ちになったことはないでしょうか。私が実はそんな人間でした。今回はそんな人のためにこの記事を書きました。どうしてそんなことを感じてしまうのか。それが理解できれば、より前向きに子供の先取り教育をできるのではないかと思います。
もしそのような気持ちになったことのない人は読む必要がありません。
Q.どうして計算練習に批判的な声があるのか?
算数・数学をする上で計算力は必要です。そのことに反対する人はあまりいないでしょう。必要なものであれば、早めにどんどん取り組んでも良いようなものですが、昔からいつでも必ず、子供に計算練習させることに反対する声はありました。
早期教育や先取り教育に反対するならまだわかります。弊害もなくはないですし、よく理解した上でないと機能しないこともあるでしょう。何より万人に向いているものでもありません。
しかしそうではなく、計算練習そのものに反対というのです。実例を挙げれば100マス計算です。100マス計算自体は昔からあったのでしょうが、一躍有名になったのは蔭山英男先生が成果を上げ、本を出された後の2000年頃だったと記憶しています。
あれから約20年。すっかり市民権を得て、初期計算練習の定番としての地位を確立した100マス計算ですが、当時はかなり多くの反対する声がありました。
一番よく聞いたのが、100マスをやらせたから算数の力が伸びるわけではない、という主張でした。それは一面的には正しいことです。100マスでつく力はあくまで計算力のみです。考える力がつくわけでは当然ありません。(けれども、計算力があるということは後の方で詳しく述べますが、算数全体の力を押し上げる補助効果があります。決してバカにできません。)
批判する側には教師等の教育現場に関わる人が多かったはずですが、計算の基礎が身につくという100マスの利点については、ほぼ無視して批判を展開していました。理由で多かったのはやはり「考える力がつかない」というものです。
そしてなぜか不思議なことに、算数の授業は100マス計算しかしていないかのような前提で話します。でも考えてみてください。100マス計算なんて5分もあれば大概の子は終わってしまいます。準備から答え合わせまで終えても10分以上かかることはないでしょう。授業の最初にやることが多いですから、40〜45分授業のウォームアップとして適度だと思われます。残りの時間で考えさせる算数をやれば良いわけですし、実際に当時100マスを導入していた先生はそのようにしていたはずです。
折りも折り、蔭山先生が校長になって出世の階段を上っていた時期だったので、やっかみから反対している人も当然いたでしょう。でもどうもそれだけではない理由があるような気がしていました。何だかアレルギーでもあるかのように見えたものです。当時はまだその理由についての答えが出せずにいました。
A1.子供が機械的に計算問題を解く姿に違和感があるから
一心不乱な子供に感じる違和感
最近やっと、その理由に自分なりの答えを見つけられました。自分の考えもまだ持たない子供が、無理矢理勉強させられる(←反対派にはそう見える)姿が奴隷のように見えて耐えられないから。これが私の推測するひとつの答えです。
子供が計算や漢字を機械的にひたすらにやり続ける様子を客観的に見ると、工場のロボットのようで何となくイヤだなと感じる人がいるのはわかります。私が実はそのひとりでした。一心に取り組む子供の姿に違和感を感じているからと考えられます。
違和感1 子供は確固たる自分の意志をまだ持っていない
その違和感の原因はふたつ。ひとつは、そこに子供自身の意思があまり見えないからです。まだ小さい子は、大人からやれと言われれば素直にやります。何か具体的に目標があるからやっているわけではなく、誉めてほしいからやっているという割合が高いのです。従順でかわいいものですが、別の見方をすれば洗脳していると受け取ることも可能と言えば可能です。
洗脳されている人の言動や行動は、誰しもあまり好ましく感じません。洗脳とまではいかなくとも、望まないことをやらされている姿もまた、見ていて気持ちのいいものではありません。子供が計算に一心不乱に取り組む様子を見て、そのように感じてしまう人がいるのです。
違和感2 子供は遊ぶのが仕事という概念
違和感の原因のふたつ目は、まだ小さい子供に勉強をさせること自体に抵抗がある、ということです。「子供は遊ぶのが仕事」という考えがありますが、行き過ぎるとそれを邪魔する勉強は悪となってしまいます。いささか極端な考え方のようですが、案外幅広く潜在しているような気がしています。
違和感の解決策は意識を変えること
挨拶やお礼をきちんとしなさい。困った人には親切にしなさい。身の回りは清潔にしなさい。これらは年端のいかない、自らの意思の薄弱な子供にも教えている常識です。黙っている子に「ご挨拶しなさい」「お礼を言いなさい」などと、ある意味強制的に指導しる様子はよく見かけますが、それに対して文句を言う人はいません。絶対的に正しいとされているからこそ腹も立たないし許されるのでしょう。
では勉強はどうでしょう。自分の成長のためにするものですが、将来社会に出たとき、世の中の役に立つ礎にもなりえるのが勉強です。そして勉強することは誰にも迷惑をかけません。だから勉強は絶対的に正しいことだと考えます。それならば、小さい頃から教えても問題ないどころか、とても良いことなのではないでしょうか。
一心不乱に取り組む姿も、洗脳と受け取らず無我の境地に達していると思えば尊い姿にも見えてきます。大人になって無心で何かに打ち込むことはなかなか困難で、瞑想したりして雑念を取り払おうとする人もいるくらいです。何の雑念もなく集中できるのは子供ならでは、と思えば温かい目で見てやれるのではないでしょうか。
遊ぶのが仕事という考え方からすると、100マスくらいの計算練習なら子供は結構楽しんでやっています。この段階ならまだ遊びと勉強の垣根が低いので、神経質になることもないでしょう。
ただし、勉強とは無関係の遊びを楽しむ時間の確保はしてやった方が将来的に無難です。やがて気がついた子供に、自分は勉強しかさせられなかったと恨まれる材料にもなりかねないので、気をつけたいところです。
A2.思考が入らない勉強は程度が低いと考えられているから
考えないと勉強ではない?
一心に計算に打ち込む子供に違和感を感じるというものとは別の理由も思いつきました。そもそも計算練習自体に価値を見い出していないから反対、という理由です。
算数に計算力は必要ですが、計算だけで算数ができるようになるわけではありません。学年が進めば進むほど、そして難しくなればなるほど、考えないと解けなくなっていきます。そうなるとどうしても計算の比重は小さくなります。
確かに難問においては思考力の方が断然重要です。思考力がないと問題を解く糸口さえもつかめないからです。はっきり言ってしまえば、思考力の方が計算よりも高いレベルを要求します。
すると、大事なのは思考力であって計算力ではない、という結論を出す人が多くなってしまいます。そこまでなら良いんですが、そこに留まらず計算だけでは太刀打ちできなくなるのを、計算なんてできても仕方ない、と変換してしまうと大変です。計算練習なんて低レベルなことをさせることは意味がないと理解してしまうからです。
そうなると、100マスのような単純な計算練習は程度が低いものとしてバカにするようになります。さらには、計算練習に一心不乱に取り組む子供を見て、バカにしたような哀れむ目で見ることになるでしょう。
解決策は計算力も重要と理解すること
確かに思考力は重要です。だからといって計算力が不要になるはずはありません。いくらうまく解の道筋を立てられても、所々の計算でミスをしてしまえば点数を取るのが厳しくなります。過程を丁寧に見て加点してくれるなら少々の計算ミスは良いのですが、現実には答えが違えば得点が半分以上吹っ飛んでしまうことの方が多いでしょう。答えだけを要求されるマークシートならば確実に0点です。やはり確実な計算力は欠かせません。思考訓練とは別に練習し、しっかりと身につけておくべきなのです。
計算力が思考の助けになることもあります。計算の度にいちいち筆算等をして時間をかけずにパッと頭で計算できれば、少しでも長く考えることができます。メモ書きや記述欄も計算が少ない分スッキリして見やすくなり、思考の邪魔を減らせます。
また、計算では間違わないという自信も大切です。自信があればその分、余裕を持って考えることに専念できるからです。
結局、思考力の方がより大事ではありますが、計算力もまた大事です。そもそも難問でなければ計算力だけで片が付くことも少なくないのです。ならば誰でも早めに基礎を築いておくべきではありませんか。
結論 安心して早くからやらせて構わない
子供の勉強姿に違和感を持たないように意識改革し、思考とは別に計算練習は必須ということを理解すれば、もう就学前から勉強させることに抵抗はなくなるはずです。
就学前だと、まだ考える力が弱いからこそ素直に取り組むことができるとも言えますし、考える力が未熟であっても取り組むことができるとも言えます。うまく誘導して少しずつ始めてみてはいかがでしょうか。
ここでは計算を例に挙げましたが、漢字学習でも類似点が多いので同様に取り組んで問題ありません。考える力は別の方法でつければよいので、計算や漢字についてはどんどんやらせても大丈夫です。どちらも算数・国語の大事な基礎です。確実に身につけてあげましょう。
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