前に、地頭が良いとはどういう状態を指すかを考察しました。
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間違ったことは書かれていません。読み返しても手前味噌ですがよくまとまっていると思います。
でもこれは、地頭が良いってどういうことかを後々導き出したものです。つまり息子を子育てしている最中に、理解力や発信力云々を意識してはいなかったということです。
では息子を教育していく上で中心的に気を配っていたことは何かというと、それは「自分の頭で考えられるようにする」ことでした。
今回はどうして「考える」ことが重要なのか、そしてその重要性を子供に伝えるにはどうすれば良いかについて書いていきたいと思います。
教育方針の柱は考えること
子育て・教育が終了した今ならば、考えることの必要性についていろいろと理由をつけることもできますが、この方針を決めたときにはまだ若かったので子育ても教育も手探りで、それが間違いないと言える根拠はまだ持ってませんでした。
しかし、詰め込みと言われる教育を受けてきてあまり考えることもなく大人になった私でしたが、何となく「考える」ことが私の子供の頃よりも重視されるようになっていく社会の空気は感じていました。その最たるものがゆとり教育です。元々はゆとりは思考力重視の面もあったのに、それすらなくなり覚える量も減ったことで学力が低下し失敗しました。
そんな社会の流れに加えて私の子供時代、学校の先生の言葉がなぜか大人になってから印象深く思い起こされるようになっていたことが、考えることを重視するにあたり大きな役割を果たすことになりました。その言葉は「人間は考える葦である」という言葉です。子供時代はずっと聞き流してきたのでなんだか不思議です。
人間は考える葦である
説教というか談義をよくする先生がいたのは覚えていますが、実はどの先生のお話だったのか、小学校なのか中学校なのか記憶が定かではありません。昔のくだらないことも結構記憶している私がこれを忘れているのが悔しいですが、なぜか内容だけは覚えています。
同級生の大多数が「人間は考える足」と思っていたところに、葦とは何かから始まって言葉の意味が説明されていきます。おおまかには人間はちっぽけなものではあるが考えることができるから価値があるんだ、という話でした。さらに、考えないなら人間とは言えないんじゃないか、人間の条件は考えることだ、と結論づけられます。
この言葉を思い出すとき、脳裏にある匂いがよみがえります。
田舎の出身なので、小さい頃は比較的身近に牛舎や豚舎がありました。もしも人間として考えることを放棄してしまえば、そこにいた牛や豚と違いがあるのだろうか。そんなことを考えたと思います。そんな光景を思い浮かべていたから説教と風景が一体となって、大人になってもずっと記憶が残ったに違いありません。
考えなければ家畜と同じ?
大人になって考えることの重要性がわかるようになると「人間は考える葦」を思い出すことも増えました。自然と親になったら子供に伝えていこうということになり、実際に教育方針の大きな柱になりました。
息子に話すときの展開はこんな感じです。牛や豚も牛乳や食肉を供給して世の中の役に立っている。しかしそこに家畜自身の意志はない。ただ利用されるだけ。それは意志のない人間も同じ。家畜同然であってはいけない。人間であるために考えなさい。
青臭くて、大人相手にご披露するのは気恥ずかしいですが、間違ってはいないというか、真実は含まれていると思います。そして青臭い分、子供の柔らかい心には受け入れやすい言葉です。子供相手には多少大げさで、インパクトのある言葉を選ぶのはとても有効です。
息子には無事伝わったようで、何事も鵜呑みにせず、自分の考えを入れてから受け入れる習慣ができています。その分素直さは減少しましたが、聞く耳を持たないほどではないので大丈夫でしょう。おそらく「人間は考える葦である」という言葉も染み込んでいるはずです。
ただし私ほどは印象に残っていないかもしれません。なぜなら息子は東京育ちなので、私のように言葉と共に想起される光景や匂いを持たないからです。近所に牛舎豚舎がないですから仕方ない面はあります。関東近郊の牧場にはよく行きましたが、私の見てきた牛はいかにも家畜という感じで狭いところに押し込められていたのに対し、牧場で見る牛はのびのび放牧されていて自由に見えるのです。そのため、感情を完全に共有することは難しいでしょう。
育った環境が違うから、私の感覚そのものを伝えることはできませんでしたが、伝えたかった事の本質は受け継がれたので良しとしないといけませんね。将来は息子なりのやり方で次世代に伝えてくれると思います。
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