マスコミと台本
8月くらいまではワイドショー主戦場として、コロナは恐ろしい病気であることを大前提とした論調がはびこっていました。さすが9月10月になると、コロナへの理解が進んだこと、飽きてしまったこと、何より景気後退によるスポンサー離れが深刻なようで、殊更に恐怖を煽ることは減ったようですが…
この論調もワイドショーだけなら仕方ないところですが、普通のテレビニュースでもほぼ同じ。ネットでなくては多種多様な意見は聞かれません。原因はテレビの、恐怖を強調する習性にあります。恐怖を煽ると視聴率が取れるというのは残念ながら事実のようで、今回の場合は「コロナ怖い」という台本があって、それに沿って報道していたということになります。
台本は政治報道のときにも作られます。権力チェックのための批判なら大いに結構なのですが、政権=悪の結論ありきで批判のための批判ばかり展開するものですから、途中の論理が破綻してもおかまいなし。結論に不都合な事実は報道しないことで乗り切ります。
この風潮はここ最近10年ほどで特に顕著になりました。それが目立ち始めた頃、テレビもずいぶん筋の通らない話をゴリ押しするようになったな。これで視聴者を騙せると思っているのかね、バカにしてる。そんな風に思っていたのですが、どうも詭弁を弄するつもりではなく、大真面目にやっているのではないだろうかと疑い始め、今ではほぼ確信するに至っています。
本来権力チェックしなければいけないマスコミと、そのマスコミと近い関係の野党が正しく機能していないことは日本にとって不幸なこと。結論の決まった台本に頼るのではなく、正しい批判と政策による対立を期待せずにはいられません。
検察の場合
台本を書いている他の機関では検察が挙げられます。容疑者を有罪にするための筋書きを仕立て、それに沿った供述を得ようとし、証拠を確保する。
それでも台本が正しければ問題ないのです。検察官にも過去の事例、それに基づく経験や勘があるので、ほとんどは正しいと信じたい。しかし人間はミスします。ヒューマンエラーを考慮すれば、起訴すれば有罪率99%というのは明らかに異常で、これは冤罪も一定割合で発生していることを推定させます。
冤罪は台本に合わせようとしてに起こり得ます。関係の薄い証拠を台本に不可欠と無理やり重視したり、重要な情報を台本にないからと無視したり。最悪なのが、筋書きが破綻しているにも関わらず、それに固執することです。それでは真実にたどり着けないというか、虚構の方が大事だと言わんばかりです。決めつけることなく、公平無私な態度で望んでもらいたいものです。
検察についてはもう一つ要望。起訴率が低すぎます。台本が書けないから起訴しないのでしょうが、それでは本来有罪な人にもすり抜けられる機会が増大します。高い有罪率にこだわって台本を書かないのでしょうが、一定の証拠があるなら起訴して、あとは裁判に委ねてもらいたい。有罪率は間違いなく落ちますが、社会の正義には近づくのではないでしょうか。ここにも台本主義の弊害があるような気がします。
なぜ台本がないと動けないのか
台本に沿ってしか動けない。動き方がわからない。ここに日本人の弱点があります。とにかく臨機応変さに欠けるのです。与えられた仕事はよくこなすけど自分から動けない。何十年も言われ続けている課題ですが、全く改善されてはいません。原因は大きく2つあります。
ひとつは日本人は論理を展開するのが苦手なこと。論理が得意でないから、台本の結論に至る経過において矛盾が生じていることに疎いのです。また、考えることそのものの経験も少ないために台本に沿うという楽な道を選んでしまうのも問題です。
もうひとつの原因は、確固とした自分の意見を持たないこと並びに意見を言いづらい空気にあります。
これら原因の克服のカギは教育、特に学校教育にあります。台本を演じるばかりではなく、自ら作り手や発信者になってもらいたいものです。改革を望みます。
誇りを持ってほしい
目の前の情報や材料をニュートラルな目で見て、そこで初めて適切な結論を導き出せるようになるべきです。そしてその結論を堂々と発言できるような社会になれば、日本は良い方向に向かうでしょうし、そうなってほしいと願います。
その上で大事なことは、仕事に誇りを持つことじゃないでしょうか。マスコミなら真実の伝達が最優先で、検察なら事実を明らかにすることです。その職務を全うすることで結果的に社会正義が実現するわけで、マスコミや検察が世直しをするのはおこがましいと思います。
一定の信念はあって良いですが、複数ルートがある場合のコンパスに過ぎず、事実を曲げてまで優先されてはならないのです。
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