社会に出れば答えがない問題にぶち当たってばかりなのに、学校の試験や受験では答えが決まったものしかやらないだからダメなんだ。そういう意見をよく耳にします。この話、一見正しいように見えますが実際のところどうなのでしょう。
ダメな対象と内容
この話が出るとき、まず何がダメと言っているのかハッキリさせておかないといけません。ダメと言われている対象は、試験をうまくくぐり抜けてきた学歴の高い人を指している場合が多いようです。そしてダメな内容はほとんどの場合、仕事において臨機応変な対応ができないことです。言われたこと、与えられたことしかできず、自分から積極的に動いて仕事を創造したりできない人のイメージですね。
これは前回取り上げた、台本や予定稿がないと動くことができない人とも一致すると考えて良いでしょう。
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わざとおかしな台本を書いて世の中をミスリードしようというするグループもありますが、ここで取り上げたい話ではありません。台本がないと動くことができない人とは、自分で考えて動くことができない人のことです。
推理する力が足りない
誰かが作ってくれた台本に沿ってしか動けない、動こうとしない。結果、指示待ち人間になってしまう理由はいくつかあります。
いくつかの事実が目の前にある場合に、それらを材料として何が言えるのか、どういう結論があり得るのかについて、自分の意見を組み立てられない。これが大きな理由の一つです。
推理力の欠如と言い換えることもできます。推理といっても小説の探偵のような切れ味するどいものの必要はなく、与えられた情報や材料から、ある結論を論理的に導き出す能力と考えればよいでしょう。
手持ちの情報が増えれば、それに合わせて至る結論も変化することがあります。きちんと推理する力がなければ、その場その場の局面に対応できません。
そういう人は自分で考えたり正しい結論を出すことが苦手ですから、決められた台本に従うのが楽というか、そうするしかないのです。
答えのあるなしは関係ない
ここから本題です。臨機応変さが足りない原因として、実社会では答えがない、それなのに学校では決まった答えがあるものしか勉強しないからダメだ、というのは本当に的を射ているのでしょうか。
先に結論から申し上げれば、この批判は適切ではありません。当たっているところが全然ないとは言いませんが、広く見ればやはり間違いです。
算数・数学を考えてみてください。算数・数学の答えはだいたい一つですが、この答えは最初からわかっているものではありません。問題に書かれている情報を検討し、そこから推理して結論を出したり、時にはそのひとつひとつの結論を積み上げていき、最後にたどり着いた答えが一つだったというだけのことです。付け加えておくと、数学では時に解なしということもあるのですから、答えのあるなしは実は問題ではなく、途中経過の論理や推理を学ぶのが目的だったのですね。
仮に実社会で答えがない問題があったとしても、正しく論理を使えばそうは間違った方向に向かいません。正解かどうかはともかく、ひとつの解決策に行き当たることはできるはずです。
ましてや、最初からある答えに合わせて台本に都合のよい情報を当てはめていくのとは次元の違う話です。論理を鍛えれば、与えられた情報を元に正しく推理できるようになり、途中で情報が変化しても臨機応変に対応できるのですから。
答えが決まった問題をやっても意味がないというのは、学生時代に数学が苦手だった人間の負け惜しみだと思っています。私も昔はそうでしたから気持ちがよくわかります。でもそれにだまされてはいけません。小さい頃から算数にしっかりと取り組み、正しい論理を身につけることが大事なのです。
しかしこの批判が完全に間違っているわけではありません。数学も答えが複数の問題や解なしを増やしてもよいし、数学以外の答えのない問題も取り扱うべきなのでしょう。例えば討論です。日本人の弱点ですから、そういう面も強化していく必要があると思います。
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