池袋暴走事件の裁判が始まりました。運転手の元院長はなんと無罪主張しているようです。事故については裁判に任せるとして言及しませんが、私が腹立たしいのは以下の点です。
まず、超高齢でしかも足が悪いのに運転したことです。しかも運転技術には既に疑問符だったそうじゃないですか。それなのに、車がなくても便利な東京で運転してしまいました。結果、取り返しのつかない事故が起こりました。もう十分に道義的には罪を負うべきです。
それなのに反省している様子がありません。功なり名を遂げてきた人生の最終盤に大事故を起こし悔やまれる気持ちはあるでしょうが、結果が余りにも重大です。せめて頭を垂れて申し訳ない気持ちを潔く出してくれれば⋯。
願わくば社会において、高齢になっての運転を早期に引退する風潮が広まってくれればよいのですね。 私の父はこの事件のあとで次回の更新はしないと言っていました。何とか実行させるつもりです。
格差は固定している?
この元院長のもうひとつの罪は、上級国民という言葉をすっかり定着させてしまったこと。この階級意識を植え付けてしまったことは、これからの日本に大きな弊害として残りそうな気がします。私が特に心配しているのは、この上級下級の格差が生まれながらに固定されていると感じる若者が多くなっているところです。
例を挙げると、実家が太いというフレーズを最近よく目にするようになりましたが、実家が裕福かどうかで将来が決まってしまうという思想が定着しているようなのです。育ちが都会か田舎か、コネがあるかないか、などというのもあります。
こういう不公平を絶対的なものと見なし、持っているのは上級国民で、そうでない者は何をやっても仕方ない、とあきらめてしまう傾向が顕著です。そういうネガティブな認識を早々にしてしまうと、僻み・妬みの感情が強くなり、自ら努力をしなくなります。ますます悪循環に陥るでしょう。そこから抜け出すことは困難です。
でもちょっと待ってください。あきらめてしまう必要がどこにあるのでしょうか。日本で固定された格差はありません。有利不利はありますが、その差は決定的ではなく、比較的簡単に埋められます。きちんと勉強するだけで。
学問ノススメ
福沢諭吉の学問ノススメの冒頭「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らずと言えり」があまりにも有名過ぎて触れられないことが多いですが、本当に諭吉が言いたいことはこの後です。平等であるはずの世の中で賢愚の差、貧富の差、地位の格差があるのはなぜだろうか。それは「学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり」つまり勉強するかしないかによって生じると言っているのです。
学問ノススメは明治維新後、四民平等が打ち出され身分制度がなくなった世の空気の中で書かれたものです。しかしながら現実は、藩閥が幅を利かせるコネ社会でもあり、「上級」の枠も少なかったので、学問だけでのし上がっていくのは大変だったことでしょう。
その時代に比べれば今の日本はそんなに厳しくない。名の通った大学に入れれば就職に困るという話はありません。就職氷河期とリーマンショック後は厳しかったですが、この数年間に限れば、努力が報われる日本だったと思います。
厳しくなったとすれば、就職した後も気を緩められない実力社会が本格到来してきたところです。ずっと勉強を続けていかないとキャリアアップできない競争社会です。
でもこれは、勉強する人間にとってはチャンスです。正しく努力したらその分正しく評価される可能性が高まるのですから。コネだけの人間は生きづらくなるのは明らかです。学歴をつけるのに失敗したとしても、逆転の目が出る確率が増えるということでもあります。
納得の選択をさせる
そういう社会を目前に、格差のせいにして最初から努力を放棄させてはいけません。多様化の時代ですから、仕事も責任もほどほどで生きていければ十分というのは自由です。そういう選択をしても大丈夫なようにするのも政治や社会の役目でしょう。
でも勉強したら好きな仕事に就ける確率も上がるよ、お金も稼げるよ、と教えることもなく、うちは上級じゃないからと選択肢すら教えないのは、アンフェアじゃないですか。子供のうちに、そういうことを大人がしっかりと教えてやらないといけません。
叩き上げで総理大臣になれるのです。どの道も閉ざされてはいません。本来ならもっとギラギラした活力を持っていたはずの若者に、最初からやる気を持たせないようにすることは間違っています。
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