今回の話は子供を信用するな、ということではありません。親が子供を信用しなくてどうする、というのも少しズレています。全力で信用できるような人間に育て上げようという話です。
我が家ではリビング学習を小さい頃から大学入試までずっと続けてきました。
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↑ここでも正直に書きましたが、リビング学習に子供を監視するという意味合いがあったことは間違いありません。他にたくさんのメリットがありますから比率的には10%くらいでしたが、その意味合いは確かにありました。
今の息子は私たち夫婦にとって100%信用に足るので、昔のことを思い出すと罪悪感も感じますが、当時はまだそう思えていなかったので仕方ない面があります。
子供を信用していなかった理由
信用していなかった大きな理由は、自分の子供の頃にあります。自室があって勉強はそこでする建て前になっていたのですが、ろくにやった覚えがありません。マンガを読んでいたり寝ていたり、もっと悪いことには、親の足音がするとさっと勉強している風を装ったり、と自己嫌悪に陥る嫌な思い出がよみがえります。
息子にそういうみじめな思いをさせたくないのと同時に、やっぱり子供は未成年で成熟していないのだから信用してはいけない、という気持ちもありました。
性善説か性悪説か
人間の本性は生来善か悪か、古くから論争が尽きない問題です。これに対し私はズバリ性悪説を採る立場です。
赤ちゃんは誰しも無垢です。煩悩もなく汚れがありません。でもこれはまっさらというだけで、どんなものでも受け入れ可能です。どんなコマンドも受け付けるコンピュータのようなものです。悪にだって簡単になってしまうでしょう。
なぜ悪になる可能性があるかというと、人間も生き物で楽しい方を選ぶのが本能だからです。社会での役割、道徳をきちんと教育せずに放置していれば、自分本位の勝手な人間になってしまいます。ダークサイドに落ちる要素十分です。
だからどちらかといえば性悪説の方が正しいと思っています。
褒めて育てる
楽しいこと・うれしいことを選ぶのが本能なら、それを活かさない手はありません。親がほめてやれば良いのです。ほめられればうれしいので、またほめられることをします。その好循環を作り上げるのです。
ほめながら、自然な習慣として定着するのを根気強く待ちます。定着したと思ってからも、きちんとできたら忘れずにほめる。そうすることでやっと、骨の髄まで染み渡ったしつけの完成です。
しつけで我が家で最重視したのは嘘をつかないことでした。長年かけて言い聞かせ続け、聞いたことに正直に答えたときや、学校での出来事・友達とのトラブルなどを報告してくれたときにもほめました。その甲斐あって中学生の途中くらいまでは自ら何でも教えてくれたものです。(今でも聞けば結構教えてくれます。ありがたいです。)
息子に嘘をつかれた記憶はありません。大きくなって、言いたくないことには口をつぐむことは増えましたが、嘘はついていないと思います。外での姿を逐一見られないですから、本当にゼロかはわかりません。でも親の期待には応えてくれているのでそれだけで感謝しないといけませんね。
まずは自ら見本となる
父親である私自身は、若い頃に嘘をついたこともあり、とても清廉な人物とは言えませんでした。しかし母親である妻の方は正義感が強く、私もその影響を受けてだいぶまともになった頃に人の親になりました。
親になる責任感はとても大きく、嘘をつかないという方針が決まると、一層正直であらねばと決意したことを思い出します。以来これまで何とか悪い見本にならずにやってこれたと自負しております。こんなことを思えるのも子を持つメリット。ぜひとも感じてもらいたい充実感です。少子化が進んで大変ですが、若者が結婚して子供を持てるような政策の充実を切に希望します。
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